私の以前のブログ「絵画と共鳴について」へのお返事(共鳴)として
「絵とライブ」という一文を送ってくださいました。
私などにもわかりやすく
目から鱗のこの素晴らしい文章をご一読ください。
「 絵とライブ 」
目に見えない何かを見えるようにしていくこと
現実の二次元平面にシンボリックに現して( 表して )いくことだと思っています。そして画家とはオーケストラの演奏に例えると
作曲家、指揮者、全ての演奏者のやっていることを
一人でやっている人といえます。
キャンバスや絵具、筆などが楽器にあたるかな。
絵を描くということ
それはたった一人でやる聴衆なしのコンサート、ライブなのです。
絵具を使いキャンバスと対話し
キャンバスとかかわった時間のすべて
その出来事の痕迹、プロセスのすべてが、そのままに残され
刻印されたものが作品なのです。
その孤独なライブ、その結果としての作品は
画家が絵筆を置いた時点で瞬間凍結されます。
そして時空を隔て
誰かがその絵に反応した時点で、その空間の中で瞬間解凍されます。
作品という物を介して
作者と見る人との間で、心身が触れ合い、感じ合うライブが始まるのです。
これが時空を共有し、同時進行していく音楽のライブと違うところです。
僕はこれまで、演奏者というものが羨ましくてしょうがなかった。
聴衆と渾然一体となって進行していく二度とないあの至福の時空。
しかし、今は絵画も悪くないと思っています。
音楽のライブは一度きりです。
どんなに素晴らしい機材でいい録音をし、映像を撮ったとしても
あの時空そのものは残りません。
( まあ、だからこそ掛け替えのないものとして
人々の心の奥にいつまでも残るのでしょうが )
これは現実の絵を体験することと
画集や絵の映像を見ることと似ているともいえます。
一方絵の場合は、その作品が消滅しない限り
見る人がその絵の前に立ち、その作品に反応した時点で
いつでもライブが始まるのです。
これをたとえばゴッホの絵を例にして考えてみましょう。
彼は1890年、今から130年前に亡くなりました。
彼の展覧会はこのところ立て続けに開催されていて
昨年も大きな話題となりました。
彼の絵は、彼の死後
後を追うようにして亡くなった弟のテオの奥さんのものとなり
といってもその価値を知られることもなく
長い間物置に無造作に積まれていたそうです。
20世期に入り、若き表現主義者たちの間で少しずつ価値が認められ
その人となりとともに、今では知らない人もいない
まさに近代の画家の代表者のような存在になっています。
しかしそのような再評価がされず
永遠に忘れ去られていったとしたら
あるいはその前に作品そのものが火事やなにかで消失していたとしたら
どうなっていたでしょう。
もちろん幸運にもその絵は失われることもなく、鮮やかに蘇り
130年という年月、アルルと東京という空間の隔たりを超えて
今この絵を見るあなたの前にあるわけです。
まさにゴッホが一筆一筆、ワンタッチワンタッチ
グニュッグニュッと刻印していったその画面が
今彼が絵筆を置いたそのままの状態で
彼の心のなかの思い、精神、鼓動、息づかいとともに目の前にありありとある。
そしてそれらにあなたが心身で感応した時点で
その空間でライブが始まるのです。
孤独のなかで制作し、死んでいったゴッホ。
しかし彼はどこかにいる
きっといるであろうと信じていた見る人に向かって
いつも強烈に自己を表現し、訴えかけていました。
やっとそれが、その作品を介して、生きたライブとして今蘇るのです。
岩本拓郎
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